松原良香コラム“サッカー人”

松原良香コラム“サッカー人”

山本昌邦さん

第7回 山本昌邦さん

恩師…。

この言葉で僕が顔を思い浮かべる一人が、山本昌邦さんです。

山本さんとの出会いは、僕が高校生の時でした。当時、山本さんは籍をヤマハにおいて、協会の仕事をしていたと記憶しています。高校を卒業後、僕はスポーツ推薦で大学に進学することになったのですが、水に合わず3日で退学してしまいました。地元のヤマハ発動機、本田技研、Jリーグ開幕に向けて動き出していたエスパルスに入りたいと話をしたのですが、いい返事をもらうことができませんでした。

サッカーをする場所がなくなり途方にくれていた時に、山本さんから電話がありました。山本さんは海外出張に出かけており不在だった時に、僕が来たことをヤマハの関係者から聞いたそうです。

改めて、山本さんとヤマハの事務所で会うことになりました。山本さんはまず、門前払いしたことを謝りました。今年の体制は固まっているので、これから選手を獲ることはできないという説明を受けました。「そうですか」

やはり駄目かと落ち込んでいると、山本さんは別の話を切り出しました。やる気があるならば、海外のチームを紹介するので、行ってみないかというのです。当時、(三浦)カズさんがブラジルから帰国していたこともあって、漠然と海外でプレーをしたいという思いはあったものの、実際に行くことを考えたこともありませんでした。やはり自分はサッカーを続けたい。僕は山本さんに海外へ留学したいと返事したのです。

スペイン、パラグアイ、チリなどの候補の中から、山本さんが選んだのがウルグアイでした。ウルグアイでの生活は別の機会に書きますが、刺激のある毎日でした。山本さんは僕のことを気遣って、ウルグアイまで様子を見に来てくれたこともありました。そして、94年にウルグアイから帰国、ジュビロ磐田となったヤマハに僕は加入しました。帰国と同時に、山本さんが監督を務めていたオリンピック代表にも選ばれました。

日本で実績がほとんどない僕が、代表に選ばれたことを驚いた人は多かったでしょう。

今、僕は指導者をやっているのですが、当時の僕のような選手を選ぶことは勇気がいったことだと思います。当然、僕もそうした周りの目は分かります。山本さんの期待に応えようと必死で努力しました。そして…ご存じのように僕は山本さんと一緒に、アトランタ五輪に出場することができました。ウルグアイに行ったこと、その後、山本さんから聞かされた「世界で勝負しろ」という言葉が僕の人生を大きく変えました。

一昨年、静岡FCの監督をしている時、練習試合で山本さんのいたジュビロ磐田を訪れたことがありました。僕がジュビロを訪れるのは久しぶりのことでした。クラブハウスは新しくなり、すっかり近代的なクラブになっていました。退団したクラブに顔は出しにくいなぁ、そう思っていた僕の心中を読んだように、山本さんがこう言いました。「お前はジュビロのファミリーなんだから、いつでも戻ってくればいいんだよ」この言葉は、胸に染みました。そして、多忙だったと思いますが、練習のやり方について、詳しく教えてくれました。

山本さんと出会っていなかったら、どんな人生になっただろうと思うこともあります。山本さんは強く叱ることはほとんどありませんでした。上手く声を掛けて選手の力を引き出していたのだと、今、自分が指導者になって改めて思うのです。ジュビロの黄金時代を作った選手、福西選手、名波選手、奥選手、服部選手、田中誠選手、そして高原選手、みんな山本さんが連れてきた選手です。

“世界”を知っていること、選手を見る目があること、山本さんは目標の指導者なのです。

2007年9月


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