松原良香コラム“サッカー人”

松原良香コラム“サッカー人”

江尻篤彦さん

第26回 江尻篤彦さん

江尻篤彦さんのプレーを初めてみたのは、今から20年以上前のことです。

当時の静岡でもっとも注目が集まるのは、高校サッカーでした。僕たちも高校サッカーの試合になると、真剣に見ていたものです。

江尻さんがいた、清水商業には、才能ある選手が沢山いました。キーパーの真田雅則さん、青島文明さん−−。中でも江尻さんのプレーに目を奪われました。彼は、当時珍しい両足を同じように使う選手だったからです。

ぱっと見ただけでは、右利きなのか、左利きなのか分かりませんでした。江尻さんのプレーを見た後、左右の足を同じように使おうと練習したことを覚えています。

その後、江尻さんは明治大学を経て、ジェフ市原(現ジェフ千葉)に入りました。僕はジュビロ磐田などで試合で対戦しました。

プレーとしては、いい意味でリスクを冒さない選手でした。監督から与えられた仕事をきちんとこなせる選手という印象があります。

アトランタ五輪の後、97年シーズンに僕は江尻さんのいた、ジェフにレンタル移籍しました。

江尻さんはキャプテンとして、僕がチームに馴染むように気を遣ってくれました。

外国人選手から若手、ベテラン、誰とでも話しができたので、キャプテンには適任でした。僕も外国人選手たちを誘って食事に出かけたりと、江尻さんの助けになろうと心がけていました。

当時は、マスロバル、江尻さんからのパスがフォワードに良く出てきました。自分の動きを読んで、きちんとパスが出てくるので、江尻さんはやりやすい相手でした。ただ、この時はワントップに近いシステムで、前線で一人きりで身体を張らなくてはならなかったので、プレーは大変でしたが。

というのも、フォワードにラデという外国人選手がいたのですが、とにかく守備をしませんでした。ジェフの後にアトレチコ・マドリーに移籍していったように能力の高い選手だったのですが、戦術を守りませんでした。フォワードとしてコンビを組んでいた僕はもちろんですが、江尻さんも手を焼いていたのを覚えています。

その後、江尻さんはジェフやアルビレックス新潟のコーチを経て、北京五輪代表のコーチに就任しました。

先日、江尻さんがフェリーチェFCの練習に顔を出してくれました。韓国サッカー協会創立75周年を記念してソウルで行われる日韓代表OB戦のメンバーに選ばれたので、子供達と一緒に身体を動かしたいというのです。

練習の最後に、江尻さんに話をしてもらいました。

「五輪では三連敗という結果で終わってしまった。僕たちは一生懸命やったつもりですが、結果は良くなかった。ただ、僕たちはコーチ。あくまでピッチの中で表現するのは、あなたたち選手です。ピッチの中で自由に自分のことを表現して欲しい。もちろん自由を与えるといっても、好き勝手やることとは違います。自由の裏側には責任がある。“自律”したプレーをしてください」

五輪を戦った熱気が残っている江尻さんに会えたことは、子供たちの刺激になったことでしょう。

2008年12月


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