松原良香コラム mano a mano
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松原良香コラム mano a mano

松原良香コラム mano a mano

第18回 田中慎吾さん@(イマキュレイト ピクチャーズ(株)代表取締役/フォトグラファー)

田中慎吾さん
松原 今回紹介するのは、田中信吾さんです。うちの写真をいろいろ撮ってくれているカメラマンであり僕の友人でもあります。ではまず、カメラマンになったきっかけから話してもらえますか。

田中 きっかけは、写真は大学時代からやってたんだけど、どうやったらカメラマンになれるのか、という方法や入口がわからなかった。だから、興味はあったものの、どうしたらいいかわからなかったので、大学卒業後は、医療関係の仕事に就職しました。しばらくすると、東京本社のほうに転勤するということになって、それで東京出てくることになったんですね。そうしたら、友人に原宿でばったり会った。「いま何やっているの」というような話になったら、その友人が「スタジオで働いているよ」と答えた。「スタジオって何?」ってきいたら「写真のスタジオだ」という答えが返ってきた。

松原 それはすごい。運命みたいな話だね。

田中 そうだね、その話を聞いて、初めてそういうところがあるのかと知ったからね。それから半年くらい、そのスタジオで土日だけ、カメラマンのアシスタントをする仕事を手伝わせてもらっていたんだけど、ある日、スタジオの課長さんみたいな人が「本当はふつう1年半くらい待たないと入れないんだけど、今だったら入れてあげるけど、どうする?」って言ってくれてね。このチャンスは逃せないと思って、もう「すぐやります」って答えた。

松原 それはラッキーだったね。そこですぐに即決できる判断力と行動力があったというのも大きい。

田中 会社に「辞めます」って話して、仕事に対して責任もあるから、2週間くらいで処理し、引き継ぎをすませて、すぐにスタジオに入った。

松原 それが何歳のとき?

田中 23歳くらいかな。それでそこからスタートして、最初はスタジオマンという仕事をやった。ロケアシスタントって言って、いろんなカメラマンのロケのアシスタントをする仕事だった。普通はそれをしばらくやったあと、また誰かについてっていうパターンが多いんだけど、僕の場合は少し違って。

松原 どんなふうに?

田中 短期間ではあったけど、会社員として社会で1回働いてたでしょ。だから多分、普通の専門学校出て入ってきた23歳よりも、社会人経験がある分だけ、少し大人びて見えたのかもしれないけど、「この子は使いやすい」と思ってくれた人がわりと多かったみたいで。それで、ある編集の人から声がかかるようになって、あるとき「土日に、お店の取材があるんだけど、できない?」って言われた。そのときはまだ僕はスタジオ担当だったんだけど「土日は休みなのでできますよ」って答えたら、毎週仕事が来るようになったんだよ。

松原 それもまたラッキーだったね。

田中 そうだね。そうなると毎週土日だから、月に8本仕事入ってくるわけなんだけど、そこで「あれ、これなら全然食べていけるぞ」と思って、それで、まあ結局読みはだいぶ甘かったんだけども、独立することにして。

松原 判断力と行動力だね。

田中 そのときには自分の作品もわりと出来あがってたから、すぐ営業にまわってみたら、なぜかわからないけど、仕事が来たんだよね。ふつう営業っていうのは10ヶ所行ったら、そのなかの1つから声がかかればいいって言うんだけど、10本行ったら2本くらいは来る。みんな全然仕事がないって言ってるのに何でこんなに来るんだろうと思ったくらい、デビューしたあとはたくさん仕事が来た。それこそ小学館のファッション誌みたいなところからも、ふつうはなかなかないことなんだけど、一発目からファッションページ10ページくらいもらえたりとか。

松原 それはすごいね。

田中 うん、ありがたかった。ただ、そのときはまだまだ経験不足だったから、いま思うと正直、現場はうまく回せてなかったと思うんだよね。でもともかく、そういう現場を知らないというところから、31〜32歳くらいまでは、ピークというかたくさん仕事があった。でも、そこから少し落ち着いてくるんだよね。やっぱり、新しい人ががどんどん入ってくるから、下からの追い上げもあるし、編集担当も若い子に変わっていく。編集の立場からすると、年上の人は使いづらいんだろうね。だから同じ立場でやれる人にっていう流れが何となく出てきて、そこでスタッフの入れ替えが始まると、だんだん仕事が落ち着いてきた。

松原 走り続けてきたスピードが少しゆっくりになってきた、と。

田中 そうだね。それで、3〜4年前くらいからかな、自分のスタジオのことを考えるようになって。それで去年、スタジオをつくったっていう感じになるんだけど。

松原 なるほど。

田中 今はご存知の通り、あまり景気がよくないでしょう。雑誌も休刊になるものがいくつもあったりするから、仕事の絶対数は確実に減ってきている。1本の単価も減ってるしね。ではそういったことをどうクリアするかって考えたときに、スタジオは営業材料になるんだよ。しかも結構、効果的な営業材料になる。新たに作品を持って営業に回るときも、スタジオを持っているほうが安心感を与えられるからね。実際に自分で営業を回った経験を踏まえると、スタジオを持っているほうが効果的だと思ったから持った、ということになるかな。基本は人に貸すスタジオだけどね。そういう流れで、今はスタジオ運営とカメラマン、両方っていうかたちになっている。

松原 なるほど。それにしても最初にいいスタートを切ることができてよかったね。その頃はどうだった?

田中 いや、それはもう、大変だったよ。

松原 23歳で会社辞めて変わって、キャリアがスタートしたわけだよね。

田中 そう。それで独立したのが26〜27歳くらいだから、わりと早いほうかな。ふつうは30歳くらいだからね。だからそのときは、やっぱり勢いがあったんだと思う。自分では、気づいてなかったけどね。どうにかなるだろうっていう感じもあったし、それがうまい具合に表に出てたんだろうね。意識してはいなかったけど。まあ、こういう仕事って、やんちゃな感じの人がよかったりするときもあるんだよね(笑)。

松原 ああ、あるね(笑)。

田中 それが場合によってはアーティスティックに見えるっていうこともあるし。でも、やっていくうちに、だんだん周りの人に合わせていくべきときもある、ということを考えるようになる。大人になるからね。今から思えば、最初の頃のやんちゃな感じが逆にアヴァンギャルドに見えたのかもしれない。まだいろいろなことを知らない、ということが、怖いもの知らずに見えたりね。

松原 勢いにまかせて突き進んでたんだね。

田中 そう、勢いでいっている感じだった。それがそのうち、いろいろ人間関係を考えたり、相手のことを考えるようになってくると、少しずつ歯車がずれてくる。それで何だか雰囲気が変わったなと思われたりもしたんじゃないかな。でも、場数は踏まなきゃいけないから、ある意味それは必然ではあるんだよ。その頃、時代もちょうど転換期だったから。

松原 というと?

田中 その忙しい時期の後半は、化粧品の撮影がすごく多かったんだよね。ジャンルで言うと「ビューティ」って呼ばれているんだけど。その頃はちょうど、デジタルとフィルムの入れ替えの時期にさしかかっていたんだけど、デジタルへの転換は、ビューティがすごく進んでいた。ファッションの撮影ではまだ、やっぱりフィルムじゃなきゃっていう流れがあったんだけど、ビューティでは、すぐにデジタルに変わっていた。それで、デジタルを覚えるならビューティをやるしかないって思って、そこから力を入れて、ある出版社のファッション誌でビューティを集中的にやらせてもらったんだよ。そこでいろいろ試して、デジタルの基礎を覚えた。

松原 そこでもいい流れに乗れたんだね。

田中 そうだね。スタジオで現場に入ったら一発で仕事が叩き込まれるから、知らないことも、その場で嫌でも知らなきゃいけなくなる。最初からそうだっだけど、もう、どんどん入ってくる感じでさ。現場にいると新しいことばかりだから楽しいし、有名なカメラマンもいっぱいいるしね。それで次にその人のスタジオに入れるっていうことにもしなったら、それはすごく勉強になるし。やっぱり、見るってすごいことなんだよ。

松原 百聞は一見に如かずっていうやつだね。

田中 僕みたいに友達の紹介で入るというのは珍しいケースだとは思うけど、だから逆に、その場その場で即戦力になるために必要なことを、どんどん吸収していかなきゃいけなかった。その経験から考えると、必ずしも学校に行かなくてもスタジオが最高の学校になると思う。まあ、求人は学校に行くからね。

松原 少し変わったカメラマンになりかただったんだね。

田中 そう。だからもう、現場で足りないものを補っていくしかないっていう感じだった。独立も早かったから、僕には誰々が師匠ですっていうようなブランドもないんだよね。そういうブランドってこの業界ではあったほうがいい場合も多いから、その点では、ちょっと大変だったかもしれない。雇う側としては、何の保証もないって言ったら変だけど、どこの誰だかわからないカメラマンよりは、誰々さんのアシスタントだった人っていうほうが安心できるし、他の人にも紹介しやすいから。

松原 なるほど、それはそうだね。

田中 今はもう15年以上やってきているから、そういうことはあまりないと思うけど。若い頃はそういう篩にかけられて、つまり誰かと比べられて、突然3日前に仕事がなくなるとかもあったよ。

松原 天秤にかけられていたわけだ。

田中 そうそう。それで最近になって「今だから言うけど、あのとき実は」とか言って、編集の人が教えてくれたりするんだよね。それを聞くとね、そこでチャンスをつかめればもっと、と思ったりもするけど、それはまあしょうがない。その頃は経験不足だったから、たぶん仕事がきても回せなかったとも思うしね。

(後編へ続く)


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